・「やりたいこと」にこだわるのをやめる
最近ではもう小学生くらいから、「やりたいことを見つけろ」などと教わる機会があります。世間一般では、やりたいことがあるのはよいことで、やりたいことが見つからない人は不幸のように思われている風潮を感じますが、私は断固としてそんな考えには反対です。
さらには、やりたいことを見つけるために自分探しをする人に至っては、バカなのかと思ってしまいます。三十歳を過ぎて、そんなことをしてはいけません。
もちろん、あなたが今現在「やりたいこと」に気づけていて、実際にやりたいことをやれているならそれ以上幸せなことはないですね。ボブ・ディランも、「朝起きて、自分のやりたいことをやれる人。それが成功者だ」 と言っていた通りです。
一方、今「やりたいこと」が見つからない…と焦ったり、必死で探したりしている人はよくよく注意してください。もしかしたら、「やりたいこと」に捉われ過ぎているかもしれませんから。
まず大前提として、あなたが今時点で思いつくことができる「やりたいこと」というのは、あなたがこれまでの人生の中で経験したことか、見聞きしたことの範囲の中でしかないのです。自分自身が思いつける範囲の「やりたいこと」など、かえってあなたの視野を狭めてしまいかねない「無用なこだわり」でしかない、という可能性が高そうです。
やりたいことが見つかっていない。いいじゃないですか。みんな最初は同じですから。ただ、もしかしたらその理由はあなたの「行動が足りない」ことによるものか、「感受性が狭い」ところかもしれませんから、重々お気を付けくださいね。
あなたが何かしらの役割や仕事を依頼された。それはもしかしたら、あなたにとって面倒でやりたくないことかもしれません。でも、あなたに依頼した人にとっては、あなたがその役割に適任で、向いていると感じているかもしれませんよね。で、実際にやってみたら意外とうまくできたりして、自分自身に適性があることに気づけるかもしれません。
そんなふうにゆるやかに捉えてみて、いろんなことをやってみることで、「面白いかも」「自分に向いているかも」と、新しい可能性に気づくことができるはずです。やりたいことは「見つける」ものではなくて、行動を通して「気づく」ものではないでしょうか。
スティーブ・ジョブス氏が生前スタンフォード大学の卒業式でおこなったスピーチでは、「Stay hungry, stay foolish」というフレーズばかりが有名ですが、個人的にはそのとき彼が語ったお話のひとつめ、「Connecting the Dots」(=点をつなぐ)に強く共感します。
そのエピソードとは、「大学で潜り込んだカリグラフィーの講義で学んだことが、10年後のマッキントッシュ設計時に生きた」というものでした。すなわち「将来何かの形でつながって実を結ぶと信じて、今努力すること」が重要ということです。
私自身のキャリアは「デザイン」とは程遠く、流れ流されてきたものですが、今から見返すとまさに「点がつながって」形成されたものだといえます。具体的にはこの通りです。
「将来独立したい。そのための経験を短期間で積みたい」→「希望に合致した会社に入り、希望通りの経験を積めたが、世間からは「ブラック企業」と呼ばれていた」→「同じ環境で同じ仕事をしているのに、自分のように愉しんでいる者と、辛そうにしている者がいることに気づく」→「逆に、世間からは優良企業とされる会社に属する人の中にも、価値観と合わずに辛そうにしている人もいると気づく」→「価値観に根差した就活ができ、ミスマッチのない世の中にしたいと考える」→「キャリア教育をプロデュースする、という領域で起業」→「『ブラック企業でも楽しい』『ホワイト企業でも苦労する』というネタがウケる」→「ブラック企業からの生還経験を基に『ブラック企業の専門家』を名乗る」→「専門家として一部で認知され、執筆、出版、講演依頼を頂く」→「ブラック企業被害者(法人&個人)から対処相談を受けるようになる」→「「ブラック企業撲滅」「ブラック化阻止」のためのアドバイスと被害者救済活動を展開するようになる」
結果的に、今このような形で点はつながり、今はまさに「やりたいこと」ができています。これまでの選択において、「一瞬たりとも後悔したことがない」と言えばウソになりますが、「その選択において最善の結果を目指そうと努力してきた」ことは確かですね。
・「努力」「頑張り」をバカにするのを止める
だいたい、小学校の高学年あたりからでしょうか。必死に努力するのはカッコ悪い、なんとなく痛々しい、という雰囲気が生まれ始めるのは。少なくとも、学生時代が終わるまでは続いていくように感じます。
たしかに、必死で努力している姿を周囲にアピールして承認されたがる人、努力したこと自体を評価されようとしている人などは本末転倒ですから、ダサいしバカにしたくなります。だからといって、あなた自身の努力については決して止めてほしくないのです。
あなたも社会人になってから、視野も交流範囲も広がり、「スゴい人」とか「デキるビジネスパーソン」を目の当たりにする機会も増えたことでしょう。同じ時代を、ほぼ同じような環境で生きてきたはずなのに、段違いに魅力的な人や、仕事ができる人が確かに存在していて、世の中の不公平さに不満を持つことさえあったかもしれません。でも間違いなく言えるのは、そういった人たちは間違いなくあなたよりも努力している、ということです。
昔から、努力の大切さを説く格言はたくさんあります。
「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している」とはベートーベンの言葉ですが、「はじめの一歩」という漫画でも語られています。またリンカーンは「待っているだけの人達にも何かが起こるかもしれないが、それは努力した人達の残り物だけである」という言葉を残しました。
才能豊かで「天才」と呼ばれる人もいますが、多くの人はその陰にある血のにじむような努力に注意を払わないものです。たとえば、画家のピカソはその作品が二百億円で売買されるくらいの大家ですが、その生涯でおよそ十六万点もの作品を制作しています。長命だったとはいえ、一日あたりに換算すると四~五作品は制作している計算になります。また、「マンガの神様」とも言われる手塚治虫氏も、四十年間の現役生活で約十五万枚の完成原稿を書いています。多い時は同時の六本の連載を持ち、TVアニメも映画も手掛けていましたから、いずれにしても想像を絶するエネルギーをもって、尋常でない努力をしているのです。天才という存在があるというより、天才と呼ばれる努力家がいる、といっていいでしょう。実際、皆が認める「才能ある成功者」に限って、インタビュー等で「まだまだです」とか「才能がないから努力したんです」などと言うのを聴きますが、これは謙遜でもなんでもなくて、本気でそう思っているのです。
まったくレベル感の違うお話で恐縮ですが、私自身もブラックと呼ばれる企業において、さんざん「ダメ社員!」と罵倒されながらも努力を続けた結果、今やりたい仕事ができていて、有難く感じています。ようやく理想とするフィールドに立てたまではいいのですが、まだまだ世の中には「才能を持っていながら努力を続けられる」という、鬼に金棒みたいな人が大勢いることに気づかされます。
たとえば、私と同じように社会問題に対してコメントする専門家という領域において、私よりも後から活動を始めた人がいます。でも、その人は瞬く間に多くの連載記事を持ち、全国から講演に呼ばれる活躍をされているのですね。確かにその方の視点は鋭く、記事内容も面白いのですが、日々の習慣をお聴きして、私との圧倒的な差を痛感しました。その方は、文字数にして五千字程度の記事を、毎日五本は書いておられるのです。一方、私は週に一本程度…差がついてしまうのは当たり前ですね。
とはいえ、努力は覚悟するだけでは不十分であり、「然るべき場所」において、「正しい方向」に対して、「十分な量」なされる必要があります。もしあなたが周囲に対して、「努力してるのに全然評価してくれない」と不満に感じたときはぜひ、「自分は、周囲から求められる働きができているだろうか?」と自問自答してみてください。自分で判断がつかないときは、周囲の人に聴けばいいのです。「期待に応えられているだろうか?そうでない場合、何を優先して行動すべきだろうか?」と。
オーディションに何度チャレンジしても受からず、最後に受検したAKBのオーディションに受かってスターの座に駆け上がっていった大島優子さんは、「同じように努力すれば、誰でも大島優子になれますか?」というTVのインタビューに、こう答えました。
「なれますね。ただし、同じ努力は簡単にはできないと思いますけど」
将来のあなたが今の自分自身に向かって「あのときバカにしてて、努力しないままでごめんな…」などと謝らなくてもいいように、今からできることをやっておきたいものです。
・「ちょっとしたこと」とバカにするのを止める
「塵も積もれば山となる」「雨垂れ石を穿つ」…など、「小事をおろそかにしてはならない」という意味の格言は数多いですよね。切り口を変えてそれだけ何種類もあるということは、よほど反対のことをやっている人が昔から多いのでしょう。
さすがに社会人を数年経験すれば仕事も習熟し、だんだんレベルの高い仕事をこなせるようになります。そうなると、これまでの仕事はさほど注意せずとも捌けるようになり、「慣れ」が出てくるのですね。もちろん、あなたの仕事レベルが向上したのは喜ぶべきことですが、慣れに対して注意を払わないままだと、あなたは「残念な人」と思われるばかりか、大切な「信頼」さえも失ってしまうことになります。これは断言できます。
「ちょっとしたことなのに…」とつい思ってしまうからこそ危うい、日常でよくある「バカにしてはいけないちょっとしたこと」を挙げていきましょう。残念ながら、自分も完璧にできているとは言い切れませんが、自戒を込めて…
・メールや文書の誤字・脱字
・提出物や依頼したことの締切を守らない
・納期遅れが確実なのに、自分からは連絡してこない
・相手の名前(氏名、会社名、店名など)を書き間違える/読み間違える
・日程調整を確定した後に、再調整を要求する
・一度伝えた連絡事項を、再度確認してくる
・メールや文書で伝えたことに対して「聞いていない」と言う
・知ったかぶりをして嘘をつく
・専門領域の中でも一般的・常識的なことを知らない
・専門領域の用語について書き間違える
・自身の過ちについて、認めたり謝罪したりする前に言い訳する
…自身にも当てはまることがまだまだ多く、暗澹たる気分になってしまいます… いずれも皆「ちょっとしたこと」ばかりだからこそウッカリ見落としがちですし、同時に「そんなちょっとしたことさえできないのか…」と思われてしまう可能性が高いのです。
たとえば私はサラリーマン時代、ずっと人事関連の業界にいましたが、当然知っておくべき「みなし残業」の説明ができずに恥ずかしい思いをしましたし、「有休」と書くべきところを「有給」と書いてしまい、お客さんに指摘されたこともありました。情けない限りです。ですので、「適性検査」と書くべきところを「適正検査」と書いてある求人票などを目にすると(けっこう多く見かけます)、残念な気分になります。
自分のことは全部棚に上げて言いますが、私が情報の受け手としてこのような「ちょっとしたことをバカにした仕事」を見てしまうと、顔では笑っていても、内心ではこのように考えています。
「この人は注意力散漫な人なのだな…」
「書いたものを見直すことをしない人なのだな…」
→肝心な時にヌケモレがありそうだから、大切なことを任せられないな…
「自分のことを軽く見られているのかな…」
「なんでも『ウッカリしてまして』とか『聞いてません』で済まされそう…」
「専門家の肩書も怪しいな…」
「自分の責任として捉えられない人なんだな…」
→仕事相手として以前に、人として信用できないな…
厳しいでしょうか?いえ、そう思われても仕方がない、言い訳ができないことをやってしまっているのです。不本意だと思われるならば、「こんなちょっとしたこと…」とバカにせずに、小さなことだからこそ、心を込めてやり切りましょう。「神は細部に宿る」のです。
「草履取りを命じられたら日本一の草履取りになれ。 そうすれば誰も君を草履取りにはしておかぬ」という、阪急・東宝グループ創始者・小林一三氏の言葉は有名ですが、こういった「ちょっとしたこと」まで草履取り=自分の仕事だと考えていない人、本気で取り組んでいない人はまだまだ多いです。だからこそ、差がつくポイントでもありますね。
・誰かのせいにするのをやめる
何かしらうまくいかないことがあったとき、その理由を「環境」や「状況」「他人」など、自分以外のせいにするのが「他責」で、自分のことだと捉えるのが「自責」ですね。
たとえば、あなたが普段「上司からあまり評価されてないなあ…」と感じていて、一方で同期入社のAさんはいつも上司から目をかけられているように見える…としましょう。
「なんで、この上司は自分のことを評価してくれないんだろう…?」
「なんで、Aばっかり評価されてるんだろう…?」 これらは「他責」ですね。
「どうしたら、上司は自分のことを評価してくれるだろう…?」 これは一見前向きなようですが、「上司は…」みたいに他人が主語になっている限り、まだ「他責」ですよ。「自責」だと、こうなります。
「なぜ、私は上司に評価してもらえていないんだろう?」
「どうしたら、私はAさんのように評価されるだろう?」
教科書的にはそうなんですけど、我々も感情ある人間ですから、何でも自責で捉えられるわけじゃないです。「どう考えても自分は悪くない!」というときもあるし、「○○してもらえない理由は…なんて、いかにも自分が下みたいでイヤだ!」と感じる人もいるでしょう。そんなとき、私は「“事〟責」、すなわち「『問題の根源』を主語にして考える」ことをオススメしています。先ほどの例なら、
「自分とAさんの評価が異なるとすれば、何がポイントなんだろう?」
「何をどうすれば、その差を埋められるだろう?」
となりますね。こう考えれば、「自分はダメなんだ…」などとヘンに抱え込むことなく、課題に集中して改善していくことができるでしょう。
私もありましたよ。27歳くらいのときでしたか、業績ではだいたい同じくらいなのに、明らかに上司から可愛がられている同僚がいましてね。もちろん私はご多分に漏れず、「アイツはいっつも上司にいい顔ばかりして、取り入るのが上手いだけだよ…」なんて思ってました。でも、実際先に出世して、大きなプロジェクトを任されたのは彼のほうだったんですよね。
当時の私は「上司に取り入るなんてカッコ悪いこと」と考えていましたが、その後自分自身が上司の立場になってから、それが大きなカン違いだったと気づきました。「上司に取り入る」ことは「おべっか」とか「出世のための布石」などではまったくなく、「人と組織を動かすための手段」だったということに。
決裁権を持つ上司は、仕事を進めていく上で壁にもなれば、支援もしてくれる存在です。そんな上司を納得させて、「Yes」と言わせ、スムースに動いてもらうためには、普段から上司とコミュニケーションをとり、時には持ち上げもして、「気持ちよくいて頂く」配慮が必要なんですね。同僚はそれができていて、実際に上司を巻き込めていました。私はそれが分かってなかったうえに、そもそも上司とのコミュニケーションを面倒臭がって避けていたわけですから、その差は歴然というところでしょうね。
そんな気付きがあってからは、私も「どうやればこの人はYesと言ってくれるかな」と考えながら仕事するようになりましたので、実に有意義でした。他責思考のままではそこまで至らなかったでしょうね。
できない理由を、環境や他人のせいにするのは気がラクではありますが、言い換えれば単なる思考停止です。問題の根本解決にはなっていませんね。しかも、他の何者かのせいにするということは、あなた自身が自分の人生を自分で決めていない、ということでもあります。もしあなたが自分の人生を生き、思考停止から抜け出したいのであれば、「デキる人はどう考え、何をやっているか」という思考回路や行動に目を向けてみましょうよ。たとえその対象がムカつくような人だとしても、その人が評価されているなら、そこには確かな理由があるはずですから。
・「昔話」と「自慢話」をやめる
世の中には、「周囲からうざったいオジサン/オバサンと思われているのに、気づいていないイタい人」が確実に棲息しています。そんな人にはなりたくないですよね。でも、あなたが勝手に「自分は自制できるから大丈夫!」と思い込んでいるだけで、もしかしたら周囲はうざったがっていて、あなたに気づかせないように配慮しているだけかもしれません。
周囲から迷惑がられていることに気づけない大きな理由は、「あなたが良かれと思ってやっている」からですね。善意から出ているだけになかなか難しいのですが、予防する方法はあります。それは「昔話」と「自慢話」を封印することです。
もちろん、すべての昔話がダメなわけではありません。「○○さんの新人時代はどうだったんですか!?」などと請われて、求めに応じて話し、あなたの経験と知見が聴く人の気付きや成長に寄与するのであればぜひやるべきです。問題なのは、求められてもいないのに説教臭く「オレ達の新人の頃は…」「お前の上司の△△が、オレに教わってたときに…」と語り始めること。周囲から見ていて、こんなに痛々しい光景はありません。
私がこれまでお会いしてきた「デキるビジネスパーソン」や「上品なオジサマ」たちは、自分から昔話を語ることは一切ありませんでした。自慢話など論外です。一方で、仕事であまりうだつが上がらない方や、品がない方はだいたい自分語りを始めます。実際に私が耳にし、いたたまれない気分になってしまった事例として次のようなものがありました。
(1) 過去の栄光を自慢げに語る
「オレ、中央大学の法学部出身なんだよね!」
「七年前のシステム統合はだいぶ手こずったけど、オレがなんとかまとめてさ…」
(2) やたら「上から目線」
「まだまだ青いな~ お前も五年目なら、これくらい分かってないと困るねえ…」
「おいおい、そんなふてくされるなよ! キミのためを思って言ってんだよ!」
(3) 否定的な反応が中心
「っていうか、これちゃんと考えたの!? ◆◆さんがマネジャーの頃だったら絶対
ありえないんだけど」
「そうはいっても、難しいんだよねー 昔と違って予算厳しいからさ…」
残念ですが、察しのいい相手なら気づいています。このような言い方をする人に限って、「今の自分に承認される要素がないため、せめて『過去の栄光』や『社歴の長さ』で自分を認めてほしい」と必死であがいていることに。あなたはこうならないように気をつけてくださいね。
承認が欲しくて語っているはずなのに、相手には「痛々しい人」という印象を与え、気づかないうちに不快感を抱かせるという真逆の結果になってしまっているのですね。周囲の人があなたに面と向かって指摘することは期待できませんから、自分で気づくように心がけ、改善を続けていくしかありません。
ウッカリ自慢話や説教をしてしまう方にありがちなそもそものカン違いは、「相手より年長→経験を積んでいる →自分の話には耳を傾ける価値がある」と思い込んでいるところにあります。冷静になって考えてみれば、「経験豊富」も「価値がある」も根拠はありませんので、なぜそれが前提になっているのか不明です。
自慢や昔話で、あなたのすごさはアピールできません。30代、まずは謙虚になるところからはじめましょう。問題は「最近の若い者」にあるのではなく、変化に適応できていないあなたのほうにあるかもしれません。オトナの知見と品性で張り合いましょう。
・会社名刺をバラまくのをやめる
たとえば、あなたが風光明媚な観光地を訪れたとしましょう。目にした光景があまりに美しかったので、持参のカメラで写真を撮りまくりました。「あとでゆっくり観よう…」と、その場での観光はそこそこに次の観光地へと移り、当日の宿で写真を見返してみましたが、どうもそのときの感動がよみがえってこない…「もっと、ちゃんと眺めておけばよかった…」なんて後悔したこと、ありませんか。
交流会やパーティなどでの名刺交換は、この観光地写真の構図と似ていると考えています。「後日に期待するあまり、現場を大事にしない」という点で…
ビジネス上、挨拶の一環として名刺交換する場面はさておき、プライベートな勉強会や交流会、パーティなどで、多くの人は名刺交換に奔走しています。会によっては「名刺交換タイム」があり、そのものズバリ「名刺交換会」という催しさえ存在します。しかし、もしあなたが「名刺を交換した枚数に比例して、人脈やビジネスチャンスが広がる」と期待しているのであれば、今日この瞬間に改めて頂くとよいでしょう。理由を説明します。
(1) 会社の名刺は会社の財産
会社のお金で名刺をつくり、それがあなたに支給されているのであれば、その名刺は会社財産です。もしあなたが大手一流企業にお勤めだったり役職に就いておられるなら、その名前や肩書を悪用して詐欺に用いられるリスクさえありますから、慎重に扱う必要がありますね。プライベートの場でどうしても配りたいのであれば、自前で用意しましょう。ネットで検索すれば、対応してくれる所はいくらでも見つかります。
(2) 「名刺交換した人=人脈」、ではない
会の内容やメンバーにもよりますが、「そこに行けば仕事がもらえそう」と期待する人が集まる場にいくら足を運んでも、魅力的な人脈や貴重な情報が得られることはまずありません。「give&take」の「take」をしたいと考えている人が多いこともありますし、人脈とは数ではなく、相手との信頼関係が深まることが大前提だからです。「有名な経営者と繋がれた!」と喜んでも、せいぜい翌日からメールマガジンが届くようになる程度でしょう。
(3) 本来あるべき交流の姿
では、どのような交流があるべき姿なのか。人望ある人が交流の場面でどんな行動をとっているか、共通点をひもとくと分かります。彼らは全く名刺交換に執着せず、目の前にいる一人一人との時間を大切にしているのですね。文字通り「一期一会」の心で、相手の話を聴いたうえで「自分は相手にどんな貢献ができるのか」と考えて対応します。相手を喜ばせようという根本的な姿勢が伝わるので、相手も心を開いて信頼を寄せ、自分から仕事の話をしなくても、相手から降ってくれるようになるのです。「人望」ありきの人脈なんですね。
もしあなたが「名刺バラマキ派」なのであれば、これからプライベートで名刺交換するときには、「いかに配らないで済ませるか」を意識してみてください。いかにそれまで名刺に頼って、目の前の相手との時間や会話をないがしろにしていたかに気づくはずです。
とはいえ、いきなりガラっと切り替えるのは難しいはずなので、まずは普段から練習しておきましょう。方法もシンプルに二つだけ、「名刺なしで語る」「相手に興味をもって質問する」です。
「名刺なしで語る」は私も企業研修などでたまにワークとしてやります。自分の会社や肩書、仕事内容には一切触れずに自己紹介して頂くのです。最初は皆さん戸惑いながらやり始めるものの、「自分を一言で表すキーワードは○○」「△△な人だと思われたい」「□□で周囲に貢献できる」などとワークで明らかにしていくと、お話も盛り上がっていくのです。
「相手に興味をもって質問する」ことは対人コミュニケーションの基本ですが、アタマで分かっていても実際にできている人は多くないですね。初対面であっても、相手の見た目の印象、お人柄や仕事内容など、質問できることはいくらでもあります。あなたが相手に興味をもって接すれば、相手にもその気持ちは伝わり、興味関心という返報を受け取ることをできるのです。
・人と比べるのを今すぐやめる
「○○と比べて自分は…」と考え、惨めな気持ちになったり、逆に安心したりすることがあります。それがたまのことで、行動の原動力になるのであれば問題はないのですが、比較することで必要以上にやる気をなくしてしまったり、「下には下がいるから安心だ!」とばかりに思考停止になってしまったりするのは問題です。いわば、「魂を他人に預けている」ことと同じ状態ですから。
さも当たり前のように言われているものの、実際は全然当たり前ではない思い込みをしていることがあります。本書で既に述べてきたこととも共通しますが、たとえば…
「やりたいことが見つかっていることがよくて、見つからない人はダメ」
「早く成功した人が偉くて、成功してない人はダメ」
「一度決めたことは最後までやり切るのが当たり前で、途中で投げ出す人はダメ」
など、いろいろですね。私の場合だと、中学時代から起業を意識していたこともあって、とにかく早くビジネスを手掛けて、若いうちから「成功者」と呼ばれたかったです。学生時代に起業して、就職せずにそのままビジネスを続けた知人を横目に、サラリーマンとして就職の道を選んだ自分を「起業もロクにできなかった負け犬」と捉えていましたし、入った会社には「デキるビジネスパーソン」が大勢いて、彼らが成果を出して、キャリアアップ転職やら独立起業を果たしていく様子を見るにつけ、「ぜんぜん何も成し遂げてないよ!」と日々焦りを感じていたことを思い出します。
そんなとき、ふと手に取った本でカーネル・サンダース氏の経歴に触れる機会がありました。氏が「ケンタッキーフライドチキン」のフランチャイズビジネスを開始したのは六十二歳のとき。それまでに四十種もの職を転々としており、三十代後半にガソリンスタンドを経営したものの倒産するなど、多くの波瀾を経験していたことを知ったのです。
私はこのエピソードから「何も、早く成功することが貴いわけじゃないよな…」と勇気づけられ、他人のモノサシではない「自分自身の人生」を、「自分なりの時間軸」で、焦ることなく生きようと決意しました。おかげで今は「本当にやりたいこと」かつ「経験を活かして貢献できること」を生業にできており、やりがいを感じて日々ハッピーに過ごすことができています。
人と比べたり、比べられたりすることで心が揺れてしまうのは、自分の人生の最終意思決定者を「他人」にしてしまっているからです。そんな不毛なことはやめて、自分の人生の操縦桿は自分で握り、自分にとって一番大切なことを一番大切にして、「自分としてはこうしたい」という強い意志をもちながら生きていくと楽しいですよ。
ちなみに、私は先ほどのサンダース氏みたいな「遅咲きエピソード」が好きです。せっかくですから、いくつかご紹介致しましょう。
・やなせたかし氏がサラリーマンを辞め、三十四歳で漫画家となったもののなかなか芽が出ず、最初に「あんぱんまん」の絵本を出版したのは五十三歳のとき。キャラクターの人気が出始め、TVアニメ化されたときには、氏は六十九歳になっていた。
・日清食品の創業者、安藤百福氏が世界初の即席めん「チキンラーメン」を発明したのは四十八歳のとき。直近まで、懇願されて理事長を務めていた信用組合が倒産し、負債弁済のため個人資産をすべて失った状態だった。
・マクドナルドをフランチャイズ展開し、世界最大のファストフードチェーンに育て上げたレイ・クロック氏が最初にマクドナルドを開いたのは五十二歳のとき。直近までは業務用ミキサーのセールスマンだった。
・伊能忠敬氏が、全国各地を測量し始めたのは五十六歳のとき。最初は私費で開始したが、その測量技術が極めて高度なものであったことで幕府からの支援が増強され、国家的事業に育っていった。最後の測量が行われたとき、忠敬は七十二歳になっていた。
・「からくり儀右衛門」と呼ばれた発明家、田中久重氏が明治新政府の要請を受けて東京に移り、電信機メーカー「田中製造所」を設立したのは七十五歳のとき。田中製造所は芝浦製作所となり、現在の東芝の基礎となった。
・周囲に気を遣わせるのをやめる
あなたにも上司や先輩がいるはずです。そういった目上の人と接するとき、あなたはどんなことを意識していますか。
恐らく敬語で話すでしょうし、いくらつまらない話をされても、最低限聴くフリくらいはするはずです。お願いごとをされたら無下には断らないでしょうし、環境によってはたとえ理不尽な要求でも絶対服従!というケースもあることでしょう。すなわち、誰しもが上司や先輩には気を遣っているのです。
別の視点で考えてみます。こんどは、「人に気を遣わせる人」って、どんな人でしょう。まず思いつくのは、「自己主張が強い人」でしょうか。「人の話を聴かない」「自分の権利は主張する」「自分に都合が悪いことは他人のせいにする」「言い訳する」… いわゆる自己中心的なタイプで、周囲にいると迷惑極まりない存在といえますね。
一方で、「自己主張しなさすぎる人」も、周囲に気を遣わせることがあります。たとえば「常に寡黙」「自分の意見がなく、なんでも他人に合わせようとする」「喜怒哀楽があまり表に現れず、反応も鈍い」… 本人に悪気はないのでしょうが、実際のところ何を考えているか分からなかったり、一緒にいてもつまらなかったりして、いずれにしても周囲は気を遣ってしまうことになります。
「自分にはそんなときもあるから気をつけないと…」と自省できる方ばかりであれば問題はないのですが、意外と世の中には「自分では自覚のないまま、周囲に気を遣わせている」というケースは多いのです。もしかしたら、あなたも気づかないうちにやってしまっているかもしれません。
それは、あなたがひとつの組織に属してから何年か経ち、後輩や部下を持ったときに始まっています。あなたはその後輩や部下になんのプレッシャーも与えない、理解ある先輩であったとしても、彼らは勝手にあなたに対して気を遣ってしまっている、ということがあり得ます。あなた自身が後輩や部下だったときのように。
もしかしたらあなたは、後輩や部下を持ってからこのように感じる機会があったかもしれません。「なんだか、自分の意見が通りやすくなった!」「周囲が協力してくれるようになった!」「自分のコミュニケーション力が上がったからかも!?」… もちろん、あなた自身の成長による部分もあるでしょう。同時に、それと同じくらい「単に、後輩や部下があなたに気を遣ってくれているだけ」かもしれない、という可能性もお考え頂きたいところです。
あなたが現在属する組織から卒業したり、異動したり、辞めたりして、「組織内の上下関係」がなくなった瞬間、今までの「気遣い」も同時になくなり、あなたの本当の人間力が露わになるかもしれません。(この構造は「あなた―発注している取引先」のように、上下関係が発生するところならどこも同じです)そうなってから初めて気づくよりも、早いうちからその可能性を自覚し、また自戒しておくといいでしょう。
とはいえ、そんなに難しいものではありません。初めての人と相対するときに少しだけ、このように意識して頂ければいいのです。
「この相手は、自分に気を遣ってくれているかもしれない…」
「これはあくまで我々に上下関係があるからであって、決して自分自身の人間力によるものとはいえない」
「相手には必要以上に気を遣わせないようにしよう… 少なくとも、それで自分がいい気にならないように気をつけよう…」
「そんな気を遣わなくていいですからねー」と一言おっしゃって頂くだけでも充分ですし、相手の立場を慮って「それはあなた/御社にとってもメリットのあることなのですか?」と確認するというのもいいでしょう。結局、人間関係の基本「相手の立場で考える」を実践すればいいわけですね。
相手に気を遣わせるのではなく、あなた自身が気を利かせるのです。普段から実践すれば、あなたは相手から「会いたい」と思われる人になれることでしょう。
・「ワーク・ライフ・バランス」のカン違いをやめる
普段の仕事が忙しくて、充分な休みもとれないような職場環境にいると、「ワーク・ライフ・バランスって大切だよな!」と痛感しますよね。
ただ、皆その重要性は充分に分かりつつも、コトバだけが独り歩きしていたり、権利だけが主張されて、義務の部分があまり語られていなかったりする印象があります。仕事柄、労働環境にまつわる不満やグチを聴く機会が多いのですが、若手でこんな文句を言ってくる人が一定割合おられるのです。
「仕事が詰まってて納期ギリギリになったりすると、上司から『残業してでも間に合わせろ!』なんて言われるんですよ! 『当社はワーク・ライフ・バランスを重視しています』なんて宣伝してるのに、おかしくないですか!?」
もしあなたが後輩から同じようなことを聴かされたら、なんと答えますか。
カン違いしている人が多いようなのですが、そもそもワーク・ライフ・バランスというのは、「仕事を適当に切り上げて、自分自身のライフを充実させること」ではありません。普段は残業までしてなんとかこなしている仕事を定時に終わらせて、“かつ〟成果を挙げることなのですから。したがって、「会社にいれば無条件で与えられるもの」では決してなく、「自らの力で獲得するもの」といってもいいでしょう。そう考えると、ワーク・ライフ・バランスが実現できるのは「楽しい」けれど、決して「楽(ラク)ではない」ともいえます。ちなみに私なら、後輩にこう言うでしょう。
「仕事は死ぬ気でやれ! ただし、8時間以内でね♡」
皆、「ワーク・ライフ・バランス=ラクな短時間労働」で、「ハードワーク=長時間労働、休日出勤、滅私奉公」だと思い込んでいるかもしれませんが、違います。ハードワークは労働時間と無関係です。そしてワーク・ライフ・バランスの「ワーク」とは、「いつもだったら夜9時までかかる分量の仕事を、集中して5時までに終わらせるハードワーク」ということなのですから。
仕事中に台風が近くまで来て、「交通機関がマヒする前に早く帰れ!」と言われたこと、ありませんか。そんなときの皆の集中力を思い出してください。普段ダラダラ残業している人が、同じ量の仕事を定時までに終わらせているのを見て「早くできるじゃん!」と思われたり… まさにあの状態を全員で毎日やれば、残業などしなくても生産性の高い「ワーク・ライフ・バランスのとれる組織」になります。その代わり、業務中はずっと集中し続けることになるので、定時にはヘトヘトになりますが…
話は変わりますが、日米のプロ野球における違いのひとつに、「試合中に投手が投げる球数制限の有無」というのがあります。日本では一試合あたり最大一三〇~一四〇球くらい投げることがありますが、アメリカの場合は一〇〇球程度という決まりがあるのです。これは投手の肩と集中力が消耗することを防ぐためです。
私たちの仕事に置き換えると、「肩」は「時間」と同じですね。限られた時間と集中力でいかに効率的に成果を出せるかを追求していきたいものです。とくにこれからの時代、労働者の絶対数は減り、現在エース級で活躍しているメンバーも、いつ育児や介護などで第一線を離れてしまうか知れません。残業も週末出勤も厭わずバリバリ働ける一部のメンバーに依存するのではなく、どんな事情を持った人でも心配なく働ける環境にしていくべきなのです。
間違ってもあなたは、残業時間と姿勢を評価する上司にはならないでくださいね。投入時間がパフォーマンスに比例するビジネスでもないでしょう。また、「人間の脳が集中力を発揮できるのは朝目覚めてから13時間以内であり、起床から15時間を過ぎた脳は、酒酔い運転と同じくらいの集中力しか保てない」、という研究結果もあるくらいです。深夜残業などヨッパライと同じ状態ですから、そんな時間までダラダラ仕事をさせるのではなく、早く帰って明日への鋭気を養わせる上司であってほしいものです。
たんなる「作業」レベルの仕事は仕組み化などの工夫をして時間を圧縮し、より付加価値の高い仕事に早くとりかかって差をつければいいのです。会社が決めた就業時間という枠にハマって思考停止せず、いかに限られた時間と集中力を有効に使うかを意識してくださいね。
・「家族サービス」と言うのを止める
「今週末は家族サービスで旅行だよ。まあ、たまにはね…」
結婚している/していないに関わらず、家族と一緒に時間を過ごすことを「家族サービス」と表現する人がいます。本当に家族を大切にしている人が、仲間の前で謙遜したり照れ隠ししたりする意図であれば可愛いお話なのですが、意外と本気で言っている人が多いのです。その人の中ではあくまで仕事が中心で、家族とともに過ごす時間は優先順位が低く、それどころか自分が犠牲を払って奉仕する側である、という考えに基づいた発言なのでしょうね。
もちろん、私自身は普段から「いろいろな価値観があるべき」と主張している人間なので、そんな意見の人がいてもいいのです。でも個人的には、何の疑問もなく「家族サービス」という言葉を使う人が多いことに違和感を抱きますし、そんな人たちに対して「可哀想な人たちだな…」という思いを持ってしまうのです。
なぜならその人たちは、人生における手段と目的をはき違えているからです。もしかしたら就活のときに考えたことがあるかもしれませんが、「何のために仕事をするのか?」というテーマについて、今一度考えたみたほうがいいでしょうね。
仕事の目的といってすぐに思い浮かぶのは「お金」でしょうが、じゃあ稼いだお金を何に使うのか。あくまでお金は、欲しいものを手に入れたり、家族を含め周囲の人をハッピーにしたりするための手段ではないでしょうか。とすると、仕事はその「手段を手に入れるための手段」でしかないですよね。
家族と過ごす時間は「サービス」などではありません。「あなたの人生の目的であり、本質」なのです。手段と目的をはき違え、手段が目的化してしまっている人はダサいのです。仕事でも同様のケースがあるでしょう。たとえばプレゼンテーション資料にこだわる人。本来は、やりたいプロジェクトを実現させるためのプレゼンなのに、うまく発表しようとして、資料をキレイに作りこむことに時間を割いてしまう人がいます。でも、肝心のプロジェクトが設計されていなければ、資料の美しさは無意味ですよね。
何の疑問もなく「家族サービス」と言ってしまう人は、本来の目的を見失い、手段が目的だと思い込んでしまっているかもしれません。目的あっての手段なのに…
私の知人で、まさにそのカン違いを知らずのうちにしてしまった人がいます。子供が生まれることをきっかけに「家族のため」を思って、それまでの仕事を投げ打って、フルコミッション営業の世界に入った人です。「自分さえ頑張れば、値札なんか気にせずに妻に服を買ってあげられる…」という気持ちで、集中するためにあえてオフィス近くにアパートを借りて住み、妻の住む実家にはほぼ帰らずに仕事に打ち込んだのです。結果、努力の甲斐あって彼は全社でもトップクラスの営業成績を記録しました。彼は喜び勇んで業績を妻に報告しましたが、てっきり喜んでくれると思っていた彼女は、浮かない顔をしています。実は、育児がはじめての彼女にとっては子供のちょっとした体調変化も不安で、夫には近くにいてほしかったのですね。育児に協力とまではいかなくとも、ちょっと愚痴を聴く程度でもしてほしかったのでした。しかし、「家族のため」なんだからいいだろう…という考えもあったようで、仕事に熱心に打ち込んでいる彼は気づかなかったのですね。喜んでくれない妻に、彼は「誰のために仕事してると思ってるんだ!」と叫びそうになりました。
しかし、妻の一声の方が早かったのです。
「まさか、『誰のために仕事してると思ってるんだ!』なんて言わないでよね!!」
幸いだったのは、この一声で彼自身が「手段が目的化している」ことに気づけたところです。それからは「自分の人生にとって本当に大切なことは家族だ」という優先順位を明確にもって仕事をしており、家庭も円満、仕事も順調にいっています。
あなたが仕事をしているのは、ハッピーな人生を送るためではないでしょうか。仕事ができて、唸るほどお金を稼いでも、あなたの成功を自分のことのように喜んでくれて、お金を使って一緒に楽しめる家族がいなければ寂しいじゃないですか。本末転倒なことはしたくないですよね。家族の理解と支えがあっての仕事であることを再認識しましょう。
もちろん職場においても、「仕事より家族を優先する」ことに渋い顔をするのではなく、「家族より仕事を優先する」ことをおかしいと判断する環境のほうが、結果的に生産性も上がるはずだと考えています。
・ビジネス書や自己啓発コラムを鵜呑みにするのをやめる
ビジネス書や自己啓発コラムには一切書けない「それを言っちゃおしまい」レベルの、大切なアドバイスをします。
それは、「ビジネス書や自己啓発コラムの内容をそのまま鵜呑みにすること」だけはやめましょう、ということです。自身が執筆していながら矛盾していますが、他の多くの著者さんも同じようなお考えであるはずです。
ビジネス書や自己啓発コラムの著作権を持っているのは筆者ですが、それがあなたに読まれているということは、書籍が出版社の商品として流通したり、メディアが原稿料を支払って掲載したりしたからです。商品だけに、いくら中身が素晴らしくて、本質的なことを書かれているとしても、多数の読者さんにとって難しいと感じられるものは売れないのです。だから、広く注目を集めるために「今すぐ成功」「誰でもできる」といったことを謳わざるを得ないケースもあります。(実際、そんな打ち出しのものを目にされたこともあるでしょう)
そういった類の本は即効性があり、読むだけで昂揚感が味わえるようにできています。だからこそ商品として流通するわけですが、その分陳腐化が早い可能性がありますし、得られた知見があなたのコミュニティや職場環境、職位ではまったく役立たない場合もあります。
ビジネス書や自己啓発コラムの内容は、その筆者自身の個人的な経験を、著者の人生というフィルターを通して濾過されたメッセージです。メッセージ自体にはエネルギーがあるかもしれませんが、あなたと著者とは属する組織も価値観もまったく違うかもしれないし、著者が「簡単でしょ?」と言うことが、あなたにとってはまったく簡単ではないということもあるでしょう。
たとえば「会社に縛られない働きかた」を提唱するような本は、すでに実績も信頼も積み重ねて、主体的に判断・行動できるレベルの人が参考にするにはよいでしょうが、まだ指示された仕事をこなすことで手一杯の人が真似をして、「約束していた勉強会があるので帰ります!」と主張しても、周囲からはおそらく応援されないでしょう。
同様に「リーダーシップ」関連の本で触発されて、休日前の夜にチームメンバーでピザパーティをやろうとしても、そもそも予算や権限がない職場かもしれません。「キャリアデザイン」関連本を読んで「好きなことを追求しよう!」と心に決めても、養育すべき家族や家のローンを抱え、とりたててスキルのない人にとっては、まったく現実的ではない、という可能性もあります。
どんな本であっても「万人向け」はありえませんので、内容を鵜呑みにすることなく、あなた自身が本に対して問いかけながら読んでください。「今、自分が解決したい課題は何か?」「今の自分の立場で活かせることは何だろう?」などと意識するだけでも、同じ記事から得られるものはより大きくなるはずです。昂揚するより「納得」しましょう。
私が以前から愛読している本を書かれている心理学者の先生と私、二人とも人生で何千冊という本を読んできた本好きですが、これまであらゆるビジネス書を読んできて、内容こそ違えども、結論としては結局全部同じだ、と意見が一致したことがあります。それは
「グダグダいってないで、サッサと行動しろよ」
ということ。まさに真理ですね。またこれは私自身がお会いしてきた、いわゆる成功者や、人生を謳歌されている方々の共通点でもあります。みなさん、「地味で当たり前のことを、地道に、徹底的に、かつ寡黙にやり続ける」方ばかりでしたから。
本コラムの内容について、あなただけはぜひ「分かってる」「知ってる」で終わらせないでください。できるところから実践し、「できる」「やってる」と言えるように。さらには「いつもできる」「いつもやってる」と言える状態になって頂ければ、あなたの人生は間違いなく実り多く、充実したものになることでしょう。